日本国内に2000軒はあるといわれるライブハウス。
そこでは有名無名問わず、あらゆるバンドやミュージシャンが、自分の信じた音楽を演奏し、披露し、観客を楽しませ、泣かせ、興奮させ、そして感動させていました。
そんな日本におけるライブハウスは、ある一人の男の着想から誕生したものといっても過言ではない。
それが平野悠さんでした!!
株式会社ロフトプロジェクト代表取締役、別名「ロフト席亭」。
彼がいなければ現在のライブハウス営業はまた違ったものとなり、同時に音楽産業もまた違った形となっていたはずと言われていました。
しかし、平野悠が経営するライブハウスで新型コロナの感染者が判明――。
「株式会社ロフトプロジェクト」の創業者・平野悠さん(75)は、葛藤の末に店名を公表し、会長職を辞したのです。
休業後の赤字は毎月5000万円にも上ったといいます。
会長は辞任したものの、平野さんは驚くべき決断をした。
正社員50人の雇用を、1年間は死守するというのだ。
それにしても、新型コロナがなければ、平野さんは悠々自適な老後を迎えていたはずなのですが、平野さんは、そんな「老後」を笑い飛ばす!?
平野悠さん自身が儲かるのは、今事業をやめることだったらしいです。
店の保証金も全部返ってくるらしいので、むしろ儲かる平野悠さんだったのです。
しかし、平野悠さんはお金を全部使い切ってしまうらしいです。
素晴らしい!!
それは会社で儲けた金だから、会社への恩返し!
「僕はこれから老人ホームに行くから、その金まで取られちゃったらかなわないけど、それ以外は全部なくなったって問題ない(笑)」と語ったらしいです。
凄い人ですね。
どんな方なのか調べてみたくなったので・・・
・平野悠プロフィール
・平野レミが親戚?
・平野悠の出身大学
・平野悠の経歴
そこで今回は『平野悠(ロフトプロジェクト創業者)平野レミと親戚!出身大学や経歴も』と題しまして、お伝えしていこうと思います。
それではさっそく、本題へ入っていきましょう!
平野悠(ロフトプロジェクト創業者)平野レミと親戚!
ライブハウス・ロフトグループの創始者、平野悠さんとのラジオ収録done.
この写真を撮った直後、ビルを出たところで3人組の警官に囲まれて職質されました。 pic.twitter.com/hkEsAcYY8K— 原カントくん (@harakantokukett) June 3, 2020
・名前:平野悠(ひらの ゆう)・生年月日:1944年8月10日
1960年代後半には学生運動、反戦運動に深く関わり、ウッドストックに共鳴。
1971年、烏山ロフト、72年西荻窪ロフトを開店。
細野晴臣、シュガーベイブ、荒井由美ら日本ロック草創期の錚々たる顔ぶれを出演させて文化を発信し、ロックやフォークソングを中心とするライブハウスのさきがけとなる。
1976年新宿ロフトを開店。
1980年代には音楽ビジネスに絶望していまったらしいです。
1981年からバックパッカーとして世界84カ国を5年かけて放浪したらしいです。
経験を生かして、社会問題に対する発言や執筆など幅広い活動を展開し、
著書に『旅人の唄を聞いてくれ!─ライブハウス親父の84カ国放浪記』があります。
トークライブハウス「ロフト・プラスワン」席亭を勤めていた・・・
現在はコロナ感染で「株式会社ロフトプロジェクト」を葛藤の末に店名を公表し、会長職を
辞職しています。
悠さん、BK、加藤さん。
濃ゆいw https://t.co/TT44HqndIJ— 天野宇空 (@uku831) June 21, 2020
今、平野悠さんはライブハウスの再生に頑張っています!!
平野レミと親戚?
平野悠さんのお爺さんはスコットランド系アメリカ人で先妻に死なれて、失意の中明治時代の日本にやってきて、日本文化にはまって、日本人の女性と結婚したらしいのです。
お爺さんは初代日米協会会長でHenry Pike Bowieと言って有名らしい。
アメリカに平野悠さんの親類がたくさんいるらしいです。
平野悠さんのお婆さんが面白いらしいです。
貴族の娘で明治天皇の側近として仕えていた。
お爺さんとお婆さんの仲人は大正天皇の生母の柳原愛子さんだったと言う。
ここで平野レミさんと平野悠さんが繋がるのです。
そして生まれたのが平野威馬雄(平野レミさんの父)と武雄(平野悠さんの父)です。
ですから、平野レミさんと平野悠さんは従兄妹ですね。
凄い一族なので、雲の上の話みたいです(笑)
出身大学や経歴も
平野悠さんの出身大学は、 中央大学なんです・・・中退なので出身とはいえませんね。
中退っていうか、ほとんど行っていなかったらしいです(笑)
大学に行くためにそれこそ親が田畑売って「お前は頭がいいから大学行け」とか、お兄さん、お姉さんも大学行かないで大学行かせてくれたり、学費出してくれたりって時代。
地方から出て来る子って結構そういう貧乏学生が多かった時代。
みんな正義感から立ち上がって「大学を金持ちの学校にするな」っていうのがスローガンだったらしいです。
どこの大学も授業料値上げ反対闘争はやっていたそうで、現在では考えられない時代ですね。
平野悠さんは、当時よく言ったのが「革命で死ぬなら本望」って言っていたらしいです。
それで大学辞めて高卒の公務員試験受けて、郵政省の貯金局に就職したらしいです。
それで貯金局という役所で一日中そろばん弾いて真面目に働きながら、役所の中に新左翼系の労働組合を作るという……つくづく大変な仕事だったと語っています。
郵便局員って、野心で溢れている平野悠さんから、考えられない職歴経歴ですね(笑)
平野悠の経歴
・1982年、「新宿ロフト」だけを残し、各店舗を閉鎖または暖簾分け。
・無期限の海外放浪に出る。
・5年間にわたる海外でのバックパッカー生活(100ヵ国制覇)を経て、カリブ海の島ドミ ニカ共和国にて市民権を獲得。
・1987年に日本レストランと貿易会社をドミニカに設立。
・1990年、大阪花博のドミニカ政府 代表代理、ドミニカ館館長に就任。
・1991年にドミニカ完全撤退、92年に帰国。
・1991年、「下北シェルター」をオープン。
・1994年、バンドマン100人を集めた「新宿ロフト」立ち退き訴訟イベント「KEEP the LOFT〜ででで出てけってよ〜」を日比谷野外音楽堂で開催。
・1995年、「新宿ロフト」立ち退き裁判和解成立。
・同年7月、世界初のトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープン。
・1997年、日本武道館にて「新宿ロフト」のオープン20周年記念イベント「ROCK OF AGES 1997」を開催。
・2004年にネイキッドロフト、2007年に阿佐ヶ谷ロフトAとトークライブハウスを次々と オープンさせている。
・2007年には大衆音楽の発展に貢献した音楽関係者に贈られる「音楽主義AWARD」(音 楽制作者連盟の設立20周年記念事業)を受賞。
・還暦を過ぎてこだわっているテーマとして「音楽」「旅」「政治」「脱原発」を掲げ、 日々それらとふれあい続けて今に至る。
・ライブハウス文化が成熟してきたタイミングで、新型コロナウイルスの感染拡大は 起きてしまいましたが、平野悠さんは逆境をバネに進化してくれるはずです。
まとめ
今回は『平野悠(ロフトプロジェクト創業者)平野レミと親戚!出身大学や経歴も』と題しまして、お伝えしてきましたが、いかがでしたでしょうか?
平野悠さんは経営するライブハウスで新型コロナの感染者が判明・・・
「株式会社ロフトプロジェクト」の創業者・平野悠さんは、葛藤の末に店名を公表し、会長職を辞した。
休業後の赤字は毎月5000万円にも上った。「頭がぶっ飛びましたよ」と語っていました。
平野悠さん自身が儲かるのは、今事業をやめることだったらしいです。
店の保証金も全部返ってくるらしいので、むしろ儲かる平野悠さんだったのですが、
平野悠さんはお金を全部使い切ってしまうらしいです。
それは会社で儲けた金だから、会社への恩返しらしいです。
さすが平野悠さんだと思います。
今後の平野悠さんの活動から、目が離せません!!
それでは、今回はここまでにさせて頂きます。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。